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【AVの歴史】日本ではどのような動きが起こっていたのか

当サイトを見ている人の多くがAV(アダルトビデオ)に関心のある人でしょう。

中にはAV業界で働きたい、AV女優に興味があると思っている人もいるかもしれません。

では、そもそもAVとは何なのか、なぜ明確な定義がないのかを考えたことがあるでしょうか。

AVとは何を指すか?

AV歴史

普段私たちがざっくばらんに会話をするときにAVが話題に上ることがあるかもしれませんが、そのようなときにAVがさすものは男女の性行為を撮影したDVDや動画などのことを指すでしょう。

この中に含まれる意味は広範であり、挿入を伴うセックスが撮影されておらず、女性のオナニーを撮影しているもの、裸だけを撮影しているもの、前戯的な行為だけを撮影しているものなども含め、性的興奮を引き起こすものすべてをAVと言います。

このように、一般的な認識では性的興奮をかきたてる映像ならすべてAVに分類することができるでしょう。

だれがどのようなルートで流通させているか、日本人が出演しているか外国人が出演しているか、モザイクはあるか無修正であるかなどはあまり関係ありません。

となると、一般的に「ポルノ」と言われるものと同義であるという事になります。

たしかに、だいたいにおいて間違いではないでしょう。

しかし、これはあくまでも一般通念としてのAVでしかありません。

当サイトで取り上げている「AV」は、単に「ポルノ」全体の意味ではなく、やや狭い範囲での商品のことです。

広義的なAVに対してツッコミを入れていけば、男女の性行為が写された映画やドラマがDVD化されたものはAVなのかと考えると、普通はAVとは呼びません。

また、海外のポルノビデオを「AV」と呼ぶことは少なく、それは「海外ポルノ」と呼ばれるものです。

このほか、日本の成人映画のブランドとして「日活ロマンポルノ」がありますが、このブランドは70~80年代に人気を博しました。

これらの作品が最近になってDVD化される流れもあります。

これらのDVDも成人指定があるからといってAVなのかと言えば、広義にはAVですが厳密にはAVではありません。

そもそも、これらの作品はAV産業が始まる前に製作された映画であるほか、AVとは全く異なる製作元、流通過程がとられています。

日活ロマンポルノは、撮影に当たって映画フィルムを使って撮影し、映画館で公開するために製作されたものです。

これに対してAVはビデオカメラで撮影され、ビデオテープやDVDやインターネット配信という形で販売やレンタルするために製作されたものです。

 

日本初のAVに見るAVの定義

AV歴史

よく、週刊誌やAV関連書籍のなかでアダルトビデオの歴史を紹介する際には、多くの雑誌において、日本で初めてのアダルトビデオは1981年に日本ビデオ映像から発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』の二本であるとされています。

なぜならば、この二本こそが日本で初めてビデオカメラを用いて撮影されたポルノ映像だからです。

流通に関してもフィルムで撮影して映画館で上映するポルノ映画とは全く異なる経路での流通を目指しており、これがやがてはポルノ映画の存在意義を失わせるほどのブームを巻き起こす「AV」の原形だからです。

この意味において、日活ロマンポルノやそれ以外の映画会社が製作した成人映画とAVは全く対局の存在であり、むしろ敵対し合う関係にあるものだったのです。

そこにこそAVの存在意義があります。

当サイトで取り上げるAVというものも、基本的にはこの意味であり、つまり「ビデオカメラで撮影したオリジナルのポルノ映像」と定義のひとつと考えることができます。

 

製作方法と流通経路

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このほかにもAVの定義として考えられるものがあります。

それは、「日本国内で合法的に販売できるポルノ商品」という事です。

歌舞伎町・渋谷・池袋・秋葉原などの繁華街の裏通りなどで、「DVD」と書いた看板でバラックのような店舗で営業されている店や、雑居ビルの一室で販売されている商品があります。

また、全国の主要都市の風俗街には同じような状況があります。

これらの怪しげな店で販売されているのは「裏ビデオ」と言われるものであり、モザイクなしの無修正のまま流通しているものです。

裏ビデオでは性器そのものや、男女の性器が結合している映像を無修正のまま商品化したものですが、現在の法律ではこのような商品は違法であり、販売することも映示することも禁止されています。

これらもAVに分類して良さそうなものですが、厳密なAVの定義に照らし合わせると、AVではないと言えます。

違法商品であれば本来は市場に流通するはずがないものであり、表の経済には無関係な商品となるからです。

当サイトで取り上げている本来のAVとは、裏ビデオに対する対語として表ビデオとも呼ばれるものであり、日本国内で合法的に流通していることが条件となるのです。

このような定義を、「言うまでもないこと」と十分に理解している人もいることでしょう。

特に、40代くらいまでの人はAVと裏ビデオの違いを理解していると思います。

しかし、日活ロマンポルノを見ていた世代、つまり現在50代以上の年代の人は裏ビデオと表ビデオの区別がなく、ポルノ全般をAVと思っている人が多いのです。

80年代以降にAVが登場してAV市場が爆発的に拡大していきますが、その背後にはAVを合法的に流通させるための製作者の試行錯誤が隠れています。

この試行錯誤を抜きにはAVの成立を正しく把握することは難しいでしょう。

今でこそAVはごく一般的な存在ですが、当時はAVを合法とするためには大きな問題がありました。

それは、日本の司法システムではどのようなポルノ映像が合法であり、また違法であるかの線引きが非常に難しいという事です。

 

 

法的にグレーなAV

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例えば、一般的な繁華街や郊外のバイパス沿いに、比較的大きく外観が綺麗なビデオショップがあり、そこでAVを取り扱っていたとします。

これは合法商品か違法商品かを問うた時、その時点ではだれも合法か違法かの判断はできないのです。

なぜならば、日本の司法制度では猥褻物の販売を禁止する法律があるものの、では猥褻とはなにかについて具体的な規定がないからです。

今から約10年前の2005年にコミック表現の猥褻性を争うべき「松文館コミック裁判」が東京高裁で行われ、ここで裁判官が「猥褻である」という判断を下しましたが、この判決は問題ありとして論争が起こりました。

ある司法専門家は、「そもそも、何を以て猥褻とするかは見る人によって大きく評価が分かれるものであり、定義が曖昧である。

そこで安易に違法であるとの判決を下してしまえば、見せしめ的な検挙が容易になるため極めて危険である」としています。

「猥褻」の問題は、コミックひとつでも司法界に論争を巻き起こしたほどに判断が難しい問題です。

AVにおいても、それを猥褻であると認定する基準は全くないのです。

基準がなかったため、AV製作者たちは自ら基準を設けることで合法化を図りました。

その結果、自主判断で性交シーンや性器にはモザイク処理などの修正を加えるようになったのです。

AV業界には、モザイク修正を施した箇所やモザイクの濃さをチェックする審査機関があり、ここできちんと合法か否かをチェックすることによって、行政からやみくもに摘発されることを防いでいます。

ただし、この審査機関に所属するかどうかはメーカーの判断に任せることになっており、審査機関には法的権限などはありません。

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もし審査機関に法的権限が与えられれば、それはコミックの問題と同様に猥褻であるかどうかの判断を司法が行うことになり、論争が巻き起こることになるでしょう。

このように、日本のAVは法的権限のない審査機関によるチェックを受けているだけであり、厳密には合法でも違法でもないグレーな存在と言えます。

グレーなものが大手を振って流通しているのですから不思議といえば不思議ですが、そのような不思議な商品の流通量は今や巨大となっています。

現在、一般的には審査機関のチェックを通過したものはすべて合法とされています。

といっても審査を受けていない商品も非常に多く流通しており、モザイクがかけられているものはほぼ合法と考えてよいでしょう。

AVの定義や歴史を知るにおいてモザイク修正や審査機関の問題は必ず押さえておくべきものです。

いうなれば、AVというものは、日本人の感性が生み出した商品といってよいでしょう。

すべてを明らかにせず、あいまいなところに価値基準を求める感性がなければ生まれなかったものなのです。

製作・流通過程についての正確な規定は難しくなっています。

現在劇場公開される映画の多くはビデオ機器での撮影に以降していますし、劇場公開での売り上げが減ってビデオ化商品の売上の比重が大きくなっています。

そのため、定義的に見ればAVと映画の中間と言える作品も増えています。

例えば、ビデオカメラで撮影されており、性的描写があり、まったく劇場公開されないオリジナルドラマなども毎月のように発売されています。

また、グラビアアイドルの水着ビデオや着エロ作品とAV女優の着エロ作品(全裸シーンもセックスシーンもないもの)では、境界はさらに曖昧になるでしょう。

 

以上のことから、AVの定義を明らかにしようと思えば、AVの曖昧さばかりが目立つことに悩まされます。

AVとは定義が非常に曖昧であり、とらえどころがない側面を持っているものなのです。

 

影が薄くなった「ポルノ」

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エロを指す言葉として「ポルノ」という言葉は、ともすると「AV」と同じ言葉として認識されがちなものです。

当サイトを見ている人の中には、生まれたときにはすでにAVが存在した年代の人もいるでしょう。

筆者もその一人ですが、AVとともに育ってきた(?)世代の人達からしてみれば、「ポルノ」という言葉のほうがどちらかというと馴染みが薄く、AVという言葉によりダイレクトなエロスを感じることでしょう(ちなみに筆者の場合、「ポルノ」というとどこか海外製のにおいを感じてしまいますが皆さんはどうでしょうか)。

「ポルノ」という言葉に馴染みが薄くなった一つの象徴的出来事として、筆者の中学生の頃の体験があります。

当時、バンドのポルノグラフィティがブレイクしていましたが、同級生の多くは「AV」という言葉は知っていても「ポルノ」という言葉は知らず、何の恥じらいもなく「“ポルノ”グラフィティ」と口にしていました。

これが「AVグラフィティ」ならば多少意識したでしょうがそのようなことはなく、ある時一人のマセたクラスメイトが「ポルノグラフィティの『ポルノ』ってどういう意味か知っとー?エロビデオっち意味ばい!」と言ったのをよく覚えています。

このように、メジャーなバンドのバンド名に「ポルノ」という単語を冠せるのは、「ポルノ」という言葉の影にはもはや背徳的なイメージが全くなくなったからなのでしょう。

特に日本においては、「ポルノ」という言葉は20世紀までに完全に影を潜めてしまった感があります。

それにとって代わったのが「AV」という言葉なのです。

 

 

ポルノの起源を探る

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ところで、そもそも「ポルノ」という言葉はいつごろ、どこから日本に入ってきたのでしょう。

「ポルノ」の語原はギリシャ語の「ポルノグラフィ」であり、ポルノグラフィとはギリシャ時代の娼婦を描いた戯画のことです。

したがって、ポルノという言葉を捉えるためには、紀元前の歴史を紐解く必要があります。

しかし、そのような追及は当サイトのテイストからあまりにもかけ離れてしまうため、日本に対するこの言葉の流入を考えていきましょう、日本で「ポルノ」という言葉が使われ始めたのはそれほど古い時代ではありません。

「ポルノ」という言葉が使われ始めたのは、1970~71年ごろであるとされています。

厳密な流入ということではもっと前になるのでしょうが、この言葉が日本の一般大衆に広く認知されて定着したのはこのころであると考えられます。

この時代の日本ではなにがあったかを考証していくと、ポルノという言葉の定着の背景が分かります。

1945年に第二次世界大戦が日本の敗戦で終わると、GHQによる統治の結果50年代には戦後政治体制が確立されました。

このころに資本主義諸国では、戦争による締め付けによる反動もあり、世界中で映画や文学などにおける表現の自由を求める運動が起こりました。

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実際に、50年代からヨーロッパでは「猥褻表現」をめぐって法廷闘争が行われており、60年代になると性的表現の自由を認める判決が出るようになりました。ついにポルノ解禁となったのは67年のデンマークでのことであり、ここからノルウェー、西ドイツ、フランスなどで相次いでポルノ解禁となりました。

ポルノ解禁となった国では多くのヌード映画が製作され、自国内のみではなく世界中に向けて売り出されました。

売るものがない北欧諸国などでは、外貨獲得商品としてヌード映画が重要な商品になっていた時代があります。

性表現の自由化は日本でも起こり、西欧諸国に先んじて製作が始まります。

60年代前半の日本ではSEXをテーマにしたヌード映画(いわゆるピンク映画)が製作されるようになり、ブームとなりました。

このピンク映画の第一号は1962年に公開された「肉体の市場」です。

1963年になるとピンク映画ブームが巻き起こります。

しかし、この時期に作られブームとなったピンク映画は、まだ「ポルノ」とは呼ばれていません。

このころは「ポルノ」という言葉はまだ一般的な物ではなく、単にピンク映画やエロ映画と呼ばれていました。

当初は零細プロダクションがピンク映画を多数制作していましたが、1968年に大手の東映が「徳川女系図」を製作しました。

欧州でポルノが解禁されたころのことです。

このように、ヨーロッパよりも早くピンク映画の製作が早くなったことから分かる通り、邦画におけるポルノはヨーロッパの影響を受けたものではありません。

東映が参加したことは邦画の大手制作会社に大きな影響を与えることとなり、大映、日活、松竹などもピンク映画の製作を開始しました。

邦画界でピンク映画ブームが最高潮に達したのはこのころでした。

 

アメリカから日本へ「ポルノ」が入ってくる

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それでもまだこのころは「ポルノ」とは呼ばれていません。

しかし、71年に入ったところでいきなり「ポルノ」という言葉がブームになるのです。

きっかけは67年10月にアメリカ議会で設けられた「猥褻とポルノに関する諮問委員会」の存在です。

今やポルノ大国のアメリカも当時は法整備が整っておらず、ヌード雑誌や劇場や映画などが無秩序に反乱していました。

アメリカはキリスト教の国であり、キリストは無秩序な性を嫌う性質があるため、カトリック教系団体が政治圧力をかけたことによって「猥褻とポルノに関する諮問委員会」が設置されたのです。

この委員会は19人の委員と20人のスタッフによって構成されており、2年間で200万ドルのお金をかけて当時のポルノの実態と社会的影響、さらにポルノを全面解禁した場合の社会的影響を科学的に調査する機関でした。

委員会の答申は70年9月に出されました。

答申書は700ページに及ぶ膨大な物であり、そこでは成人男性が性的表現を含むものを読んだり観たりする自由を政府が妨げる理由はないとするものでした。

当時の大統領はリチャード・ニクソンでしたが、彼はこの報告書に猛反対したのですが、結局はポルノは解禁となりました。

アメリカではすでにポルノが跋扈していたのですが、解禁の後押しを受けて急速に性描写が加速して行き、早くもハードコア描写などが出現するようになります。

ヨーロッパにおけるポルノ解禁のニュースは日本ではほとんど知られませんでしたが、アメリカでのポルノ解禁のニュースは日本に伝えられ、雑誌その他の媒体で詳しいレポートも紹介されました。

このころがポルノという言葉の流入と考えられます。

その後、71年3月に西ドイツのポルノ映画「痴態」の広告において「これがポルノ映画だ!」と書かれたことが話題を呼び、この年の後半にはポルノという言葉が男性週刊誌に頻繁に登場するようになります。

新人ヌード女優がデビューする際には「ポルノ女優」という呼び名が使われるようになり、日活は一般の方がから成人映画中心の運営方針に転換し、その成人映画路線の名称が「ロマンポルノ」となりました。

ここに至って、日本で「ポルノ」という言葉が定着したのです。

 

 

テレビの登場とVTRの発達

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以上のように、当時は世界中でポルノ映画が氾濫したわけですが、この背景にはもうひとつの理由があります。

それはテレビの普及です。日本では1957年に43のテレビ局が開局し、200万台のテレビが販売され、映像を通した娯楽が家庭で享受できるようなり、映画館からは大衆の足が遠のきました。

なにしろ、1958年には映画館の来場者数は11億人以上だったものの、テレビの普及に伴って66年には3億4000万人に減っているのです。

このような映画低迷を打破するために映画界ではテレビで放送できないヌード描写や暴力描写を伴う成人向け映画を製作することになったのです。

ちなみに、50年末からテレビが映画に打ち勝って大衆の娯楽になった理由には、放送技術の革新がありました。

さらにこの時期、VTR技術が急速に発達しつつあったことも注目すべきことです。

今の若い人たちが知るとびっくりすることですが、テレビ放送が開始されて間もないころ、すべての放送は生中継でした。

しかし、アメリカなどの国土が広く放送する場所によって数時間の時差が出てしまう国では、地域ごとに差を付けて放送を行う必要が生じます(例えばお昼12時のニュースなど)。

当初はビデオの録画技術がまだなかったため、スタッフや出演者に何度も出演してもらって再放送するという方法を採っていましたが、これは非常に非効率な方法であるため、VTR(ビデオテープレコーダー)の技術が急ピッチで開発されることになったのです。

VTR技術は1950年代にアメリカで開発され、1956年に実用化されたものです。

このシステムが日本に入ってきたのは1958年、NHKとTBSと大阪テレビが導入したことによります。

そのころから日本でも独自に、ソニーや東芝、松下電器(現在のパナソニック)、ビクターなどによってVTRの開発が始まり、59年にはビクターから、62年にはソニーから独自のVTRが開発され、特に64年にはソニーが世界初の家庭用モノクロVTR機の開発に成功しています。

アメリカでも盛んに開発が行われましたが、このアメリカ製のVTR機は性能や価格で明らかにソニーのものに劣っていました。

こののち、VTR機は日本製品が世界を席捲するようになります。

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このVTR機の進歩に合わせて映画産業は衰退していきます。

VTR技術の向上に伴ってテレビの質も向上して行ったため、映画産業の衰退は当然といえば当然のことだったのです。

そしてお気づきの読者も多いかもしれませんが、VTRの進歩がポルノ映画の時期と重なっています。

大衆の「もっと見たい」という欲望を、映像を記録できるVTRが果たすことになったのです。

ポルノブームとVTR開発ラッシュという二つの要素が合わさることによって、新しいVTRという新しい映像メディアにポルノが取り込まれるのは自然な流れでした。

また、VTR機器が次々に発表される中で、日本人はそれを簡単に手にできる立場にありました。

このことが後に訪れるAVブームに大きな役割を果たすことになります。

1969年11月、ソニーからカセットビデオプレーヤー(当時は録画はできない)の試作に成功し、U規格としてソニー、松下電器、ビクターの三社統一規格として発表されました。

これは一般家庭への普及を目指した画期的なモデルでした。

当時のビデオブームを象徴する言葉として、当時のフジポニーの社長であった石田達郎は「ビデオ産業は今後10年で5000億円産業になる」と喝破したほどでした。

ビデオ時代到来の狼煙が上がったのです。

この言葉の通り、映画会社、マスコミ、広告業界などが次々とビデオ市場に参入し、70年代には数百社がビデオ部門を立ち上げました。

しかし、この時期にはビデオソフトはあまり売れませんでした。

ビデオプレーヤーがあまり売れなかったこと(70年には大阪万博が開催されたことによって、ビデオプレーヤーよりも8mmフィルムカメラのほうが売れたのです)、当時のビデオソフトは30分のもので3万円もしたこと、ソフトの内容が旧作映画のビデオ化、戦争のドキュメント、スポーツのハウツーなどばかりであり、需要がなかったことなどが原因でした。

といっても、ひとつだけ売れたジャンルがあります。

それが、後にポルノビデオと呼ばれるようになる成人向けビデオです。

エロテープ関係者はラブホテルや旅館相手にエロテープを売り込むことで、ひとり甘い汁をすすることができました。

本格的にビデオ時代に突入するのはこの5年後です。

1975年に1/2インチカセットテープを使った「ベータマックス」がソニーから発売され、76年には「VHS」がビクターと松下から発表されたことで、ビデオブームとなります。

その間、多くの事業がビデオ産業から撤退する中、ポルノビデオのメーカーだけ成長し、制作システムや販売ルートの開拓に成功しました。

これが80年代以降のAVブームに多大な貢献をすることになります。

 

日活への摘発がポルノ市場拡大へとつながった

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しかし、まだこの時点ではAV産業は発進しておらず、そこに至るまでに大きな障害がありました。

1970年代初頭、ポルノビデオの主な需要はラブホテルにありました。

高度経済成長期の当時、ラブホテルの数が急速に増えていき、1974年時点で全国のホテルや旅館の新築件数が約4600件であったのに対し、そのうちの4000件以上がラブホテルであったとされています。

新規オープンするラブホテルでは、集客のためにVTR機器を導入し、カップル客に向けた娯楽としてポルノビデオを備えたのです。

当時はポルノビデオ製作のノウハウを持っている制作会社は、60年代からポルノ映画を製作していた大手映画会社の数社だけでした。

例えば70年には日活がVTR室を開設していますし、同じく70年には東映が東映ビデオ株式会社を新設しています。

また洋画を配給していたヘラルド映画とミリオン映画も合弁でジャパン・ビコッテというビデオ会社を設立しています。

この3社が70年代のポルノビデオを牽引しました。

この3社は当初、自社の一般映画をビデオ化して販売していましたが、ビデオプレーヤーの販売は思わしくなく、売上げを確保するためにはポルノ作品を作るほかありませんでした。

このころ、東映は既に成人作品の製作実績があったため、そのノウハウをビデオに流用することでポルノ作品を製作しました。

日活はこの時点ではロマンポルノには移行していなかったため、ヌードやベッドシーンの撮影に長けた人材がおらず、苦戦を強いられることになり、外部の撮影所に外注したほどでした。

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このように日活は製作に困難な事情があり、切り詰めた予算での製作も強いられましたが、零細のピンク映画のピロダクションにはそれが可能でした。そこで一つの事件が勃発します。

大手から外注を受けた一人に代々木忠なる人物がいました。

この人物は当時のタイトな予算に応じるため、脚本を絞ってセリフを減らし、即興の演出でドキュメント風のピンク映画を製作しました。

しかし、このドキュメントスタイルのビデオが当局の目に留まり、このビデオをリースしていた徳島県の業者が摘発を受けることになりました。

容疑はわいせつ図画頒布の容疑でした。

その作品こそ、代々木が日活から依頼されて製作した「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」という二本の作品だったのです。

このほか大阪の日活関西支社も捜索の対象となり、「ポルノ・コンサルタント」「ブルーマンション」の二本も摘発されました。

徳島県警池田署が動いたきっかけは、管轄内のラブホテルでいかがわしいビデオが流されているという通報を受けたためでした。

警察はそれがピンク映画と同じものとは思わず、無修正ビデオと予想してフライングする形で摘発に踏み切ったのです。

しかし、フライングになったものの、警察当局にはポルノビデオの勃興をけん制しようという意図があったことが予想されます。

徳島県警は「ストーリーがほとんどなく、露骨なシーンをみせるためだけに作られた映画」と主張し、これに対して日活は「ラブホテルの密室で個人が鑑賞するためのものであるため公然陳列にあたらないのでは」と反論しましたが、ラブホテルは阿波踊りなどの祭りの際には一般観光客も利用するという見解によって反論を退けました。

代々木は自分の作品が摘発されたことに対し、

「実際にはセックスではないものを技術によってセックスに見せているのであって、やっていることは映画館で上映されている35mmのピンク映画と何ら変わりません。女性は前貼りを付けていますしね。しかし、全身のショットが長かったのがまずかったのかもしれません」

と不服のコメントを残しています。

さて、この摘発後まもなく、次は日活ロマンポルノが警視庁の摘発を受けることになりました。

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これが日本のポルノ表現の分岐点となります。

すなわち、日活ロマンポルノはその前年の1971年11月にクオリティの高い女優をそろえ、オールカラーのピンク映画を上映しました。

経営破たん寸前だった日活も、これが非常な人気を博したことで息を吹き返し、ロマンポルノへと転身することとなります。

大手映画会社の日活が名前に「ポルノ」を冠していることからも分かる通り、ポルノ表現をより大衆的な物にしようという意図がありました。

警視庁は、この映画が公開されていない時点で事情調子を行い牽制したのですが、これを検閲行為だと批評した映画関係者に対して、警視庁は「時代遅れかもしれませんが、刑法に触れる以上は取り締まる必要がある」とコメントしました。

ロマンポルノが摘発されたことによって、日本では欧米のようなポルノ解禁への動きはストップせざるを得ませんでした。

その後映倫を巻き込んで9年間もの法廷闘争を繰り広げた(日活ポルノ裁判)結果、1980年8月にようやく被告8人の無罪が確定しました。

しかしながら映倫は摘発への防波堤として審査基準の強化に踏み切っていました。

もっとも、映倫の規制強化はあったものの、この事件がニュースになったことで大衆は興味を抱き、観客動員は増える結果となりました。

70年代に欧米ではポルノ解禁となったことでポルノ市場が拡大しましたが、日本ではポルノ表現が規制強化されたことで認知上が向上してポルノ市場が拡大することになりました。

いつの時代も、権力側が抑圧したことで大衆が反発するねじれ現象は起こるものなのです。

さて、この一連の流れで危機感を覚えたポルノビデオメーカー(東映、日活、ジャパン・ビコッテ)は、日活の摘発から1か月後にビデオ映像の審査機関である「成人ビデオ倫理自主規制懇談会」を立ち上げました。

これが後にAVの内容もチェックをする「日本ビデオ倫理協会」に発展していき、AVの合法性に根拠を与えることになります。

ちなみに、このポルノビデオメーカー3社はビデオ化専用のポルノ映画の製作を中止し、すでに映倫で審査を済ませたて劇場公開したもののみビデオ化するようになりました。

 

いかがでしたか?

現在、私たちの生活に非常に近い存在となったAVも、実は長い長い歴史の中で徐々に出来上がってきたものなのです。

AVの成り立ちを知れば、これから鑑賞するAVにも少し深みを感じることができるかもしれません。

 

 

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