今かえりみるAVの誕生秘話
AVの歴史は30年余りになり、今でこそ社会的に受け入れられる存在になりつつあり、自らAV女優を目指す女性も増えてきました。
しかし、ここに至るまでには様々な困難もありました。
本稿では、AVがどのようにして生まれてきたかを解説していきます。
AV第一号
日本におけるAVの第一号とされているのは、1981年5月に日本ビデオ映像が発売した「ビニ本の女・秘奥覗き」と「OLワレメ白書・熟した秘園」の二本であるとされています。
この作品は脚本を準備したうえでカットを割って撮影したオーソドックスなスタイルでの撮影の作品です。
ポルノ映画とポルノビデオの決定的な違いはフィルムで撮影されているかビデオカメラで撮影されているかにあり、ビデオ撮りによる作品作りは当時では画期的なものでした。
AVブームの起爆剤となるのはこの二本の翌年、82年8月に発売された「ドキュメント・ザ・オナニー(代々木忠監督作)」シリーズでしたが、この作品はAV第一号とは異なる演出によって収録が行われました。
タイトルからも想像がつくでしょうが、ドキュメント的な演出による作品だったのです。
これが、従来のポルノ映画の演出と決定的に異なるものであり、ビデオ撮りの魅力が伝わるものでした。
ポルノはビデオ撮りと掛け合わせることによってドキュメントというスタイルを取ったわけですが、その理由はどこにあるのでしょうか。
機材はいかに発達したか
1975年にソニーはベータマックスを開発し、1976年にはビクターがVHSの開発に成功しました。
これによって、一般家庭にビデオ機器が普及していくことになります。
ソフト・ハードの両方で家庭に取り入れやすいサイズに小型化されたことも普及に拍車をかけましたが、1977年に松下電器がVHSを採用したことが大きかったでしょう。
松下電器は巨大な販路を持っており、さらに低価格志向のメーカーだったからです。
それに対してソニーやビクターは開発主体であったため高性能志向が強く、ビデオ機器は高級品として進化を続けており、なかなか一般家庭に普及していなかったのです。
その結果、ビデオシステムはVHSとベータの2種類のフォーマットにおいて、低価格化と高性能化の両面で競争を繰り広げる結果となり、日本のVTR産業は世界へ向けて拡大していくことになったのです。
1981年、一般家庭でのビデオデッキ普及率が10%を突破し、ゆっくりとではありますが市場は拡大していきました。
1970年代に販売されたビデオソフトのうち、唯一成功したジャンルはポルノであったため、VHSとベータでもポルノビデオは当然ヒットすると考えられ、多くのメーカーがポルノビデオの製作に乗り出しました。
1983年に販売された成人向けビデオカタログを見てみると、約90社のビデオメーカーが掲載されているのですから驚きです。
当初発売されたポルノビデオは、ポルノ映画をビデオ化したものでした。
その後、ポルノビデオの販売量が増加していくと、成人映画だけでは需要に対応できなくなっていき、撮り下ろし作品が製作されるようになっていきます。
またこの時期、放送・業務用ビデオカメラと録画機が大幅に進化しており、それらの技術がポルノビデオにも利用されるようになっていきました。
1970年代後半、放送界にはニュース報道においてENGシステムが本格化するという画期的な変革がありました。
このENGというのは、スタジオの外でビデオ取材や撮影を行うことを指します。
70年代は報道現場で16mmフィルムを利用したものを取材撮影、ビデオカメラを使った取材撮影をENGというようになりました。
70年代初頭まではこれらの取材は16mmフィルムで行うのが一般的でしたが、アメリカでビデオカメラと小型VTRで取材が行われたことから変化が始まりました。
ENGシステムでは、現像処理の際の時間浪費がなかったため速報性の点でフィルムに勝っており、日本の放送業界もすぐに反応しました。
機器メーカーもENGシステムに対応した小型で軽量の製品の開発に取り掛かりました。
本格的に導入されるのは1975年のことであり、沖縄海洋博と天皇訪米を中継した時だと言われており、これが成功したことで日本のテレビニュースでもENGシステムが盛んに利用されるようになりました。
それに伴いカメラやVTRの小型軽量化も加速し、画質、重量、バッテリー持続時間なども向上していきます。
1979年には20キロ程度の肩担ぎカメラなどが登場し、スタジオと同レベルの撮影が屋外で可能になりました。
そして80年代初頭には「撮影はスタジオで行うもの」ではなくなっていました。
これらの機材によって、屋外でのイベントや事件を現場から即座に報道することが可能となりましたが、同時に大型のスタジオでなくとも撮影できるようになったことは、一般家屋や街頭でのドラマ撮影も容易にしました。
磁気テープの量産も可能となっており、コスト面でもフィルムに勝るようになっており、ここにおいてビデオ撮りの優位性は決定的なものになりました。
この流れを背景にして、ポルノビデオでもビデオ撮影が行われるようになっていきます。
それまでのドラマは16mmフィルムで撮影されテレビ映画などと呼ばれていたものですが、フィルム撮影に劣らない能率でビデオ撮影が可能になり、むしろ画質はビデオの方がよくテレビ向けであったため、テレビドラマでもビデオ化が進んでいました。
1981年に日活ロマンポルノ出身の白井伸明監督が日本初のビデオ撮りポルノを製作したことで、ポルノビデオもテレビドラマと同じ流れで進むこととなりました。
ビデオ撮影になったことで現場をコンパクトにすることが可能となりました。
機材の進化に伴う撮影手法の進化
ビデオ撮りのポルノが製作されたことによって、ビデオ撮りポルノの製作が各メーカーで始まりました。
例えば、日活映画の子会社(ビデオ製作販売部門)であるにっかつビデオフィルムズは1981年7月から「生撮りシリーズ」を販売しています。
また同年9月に愛染恭子を主演に据えた本番映画「白日夢」が公開されたことで「本番」という演出が一般に知られることとなりました。
本番といえば挿入行為を指すもので、現代のAVでは何ら珍しいものではありませんが、当時これは過激な演出法でした。
11月には再び愛染恭子主演で「愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき」というビデオ撮り作品が発売され、これが2万本以上も売れて大ヒットとなりました。
また、この作品の監督であった代々木忠は確たる評価を受け、1982年に「ドキュメント・ザ・オナニー」の製作に至るのです。
しかし、実はこの作品は代々木監督のオリジナルアイデアによるものではない様です。
「ドキュメント・ザ・オナニー」の発売前である1981年、ビニール本を販売していたハミング社が設立した「宇宙企画」において、「素人生撮り」「実験SEXデート」「SM体験 早見純子の場合」「私の放課後」「美知子の恥じらいノート」などが発売されて大いに売り上げたのですが、「実験SEXデート」では一人称ビデオ、「SM体験 早見純子の場合」では完全ドキュメントSM、「私の放課後」ではイメージヌード、「美知子の恥じらいノート」ではインタビューオナニーをテーマとしていたのです。
これがその後のポルノビデオの方向性を決定づけたのは疑いがありません。
実際に宇宙企画が登場したことで、その後のポルノビデオ界はそれ以前とは明らかに異なるものとなり、美人女子大生や素人女子高生を起用したドキュメントものが市場の大半を占めることになったのです。
中でも「美知子の恥じらいノート」によるインタビューオナニーの影響によって、代々木監督の「ドキュメント・ザ・オナニー」が製作され、空前のセールスを上げることとなったのです。
欧米のポルノビデオとは明らかに異なる日本のAVの特徴として、表現内容が必ずしも男女のSEXに偏重していないという特徴があります。
この原因としてはビデ倫などの自主規制機関の審査が影響していることもありますが、それは別としても独自の撮影手法がとられています。
つまり、SEXに偏重するのではなく、イメージ、ドキュメント、インタビュー、オナニー、SM、コスプレなどの二次的な要素をちりばめながら全体を構成していくという独自性を持っています。
上記の宇宙企画のくだりでも書いたように、そのころからこの二次的要素はすでに表れており、今に至るまで続いているのです。
日本のAVの伝統とでも言えるでしょう。
宇宙企画はこのようなAVの伝統、独自表現を開拓した存在として位置づけることができます。
その他の重要なこととして、上記の宇宙企画の作品のうち「SM体験 早見純子の場合」「実験SEXデート」「美知子の恥じらいノート」の三本が同一人物の演出によるものだという事が挙げられます。
これは小路谷秀樹という人物によるものであり、この人物は初期の宇宙企画を支えた監督の一人です。
小路谷監督はAV黎明期の中心人物であり、一説によると「アダルトビデオ」という言葉も小路谷監督が造語したものであるともされています。
小路谷監督は1984年には「私を女優にしてください『何でもやります』竹下ゆかり19歳」を製作し、大ヒットによってAVブームを決定的なものにしました。
また、小路谷監督は1982年に「女子高生素人生撮りシリーズNo.2 美知子の恥じらいノート」を製作していますが、これもAVの方向性を決定づけた重要な一本であり、ドキュメント手法もこの作品によって完成したと言われています。
「美知子の恥じらいノート」の内容を簡単に書くと、AV女優にスカウトされた三浦美知子が応接室で裸になるように説得される過程をドキュメントしたものです。
序盤は小路谷監督が美知子を説得する映像を固定カメラで撮影し続けており、中盤になると説得から逃れようとする美知子が席を立つと小路谷監督がカメラに手をかけて美知子を追いかけながら説得を続け、拒否しながらも同時に好奇心も持っている美知子を説得と誘導によってオナニーへと導くという内容です。
固定から移動への転換、またそれに伴う客観から主観への転換、カメラの動きによる臨場感、美知子の変化を詳細に捉えることなど、すべてビデオカメラだからこそできたことでした。
30分の作品でしたが、非常に濃密なドキュメントだったのです。
「ドキュメント・ザ・オナニー」はいかにして伝説的作品になったか
このような映像が生み出された要因として、やはりビデオカメラの存在は大きかったと言えます。
なにしろ、「美知子の恥じらいノート」は監督が一人で移動しながら撮影できるビデオカメラがなければ製作は絶対に不可能だったからです。
固定からハンディに切り替えることができ、移動しながらでも安定した映像が撮影でき、ズームも可能などといった要素がそろっていたからこそ製作が可能となったのです。
1982年当時は、テレビにおけるENG志向に対応して開発された機械を用いてAV撮影が行われていました。
当時のAV業界ではドキュメントものが市場の大半を占めましたが、その背景にはテレビニュースの報道で利用されていたENGシステムがあったのです。
つまり、AVの誕生と方向性の醸成の過程には、機材の特性による強い影響があったのです。
別の視点から見れば、ENGシステムを活用してAVを撮影していくとなれば、リアリティを追求するためにドキュメント作品にならざるを得なかったともいえるでしょう。
ビデオはリアリティの追求であり、それとは対極にあるフィルムはファンタジーの追求であり、ポルノの指向性がここで分岐したと言ってよいでしょう。
しかし、「美知子の恥じらいノート」はヒットしたと言われているものの、ヒットの度合いではドキュメント・ザ・オナニー」の比ではありません。
「ドキュメント・ザ・オナニー」は伝説的ともいえる作品であり、若い世代を除けばほとんどの男性がタイトル名を知っているほどです。
このことは、「ドキュメント・ザ・オナニー」シリーズが2004年にDVDボックスとして復刻されたことからも、いかに伝説的であったかが分かります。
この「ドキュメント・ザ・オナニー」という作品は、監督がカメラの前で女優にインタビューを通して巧みに誘導していき、艶めかしさや恥じらいなどの表情を撮影し、やがてはオナニーの披露に至るというシンプルな内容です。
今では何ら珍しくない内容であり、物足りないくらいですが、脚本をもとに演じているのではないため女性の素の表情や生身に反応が見られるという作品でした。
当然ながらモザイク修正はかかっており、デジタルモザイクや薄消しが主流の現代から見れば非常に分厚く広範囲にわたるものですが、それが一種のエロスにつながっており、当時では最高に刺激的なものだったのです。
もっとも、この作品が2004年にDVDボックスとして復刻されたからと言って、昨今のAVを見慣れている現代人がそれを観たところで、構成がシンプルすぎること、女優の反応が地味であることなどによって物足りないものであることは言うまでもありません。
一方、「美知子の恥じらいノート」は今見直しても刺激的な内容であるという評価を得ています。
構成や女優の反応やカメラワークが優れており、現代の画質と現代のAV女優を起用すれば、十分な性的興奮を得られる内容になるほどのものです。
しかし、発売当時は「美知子の恥じらいノート」は話題性が乏しく、それに対して「ドキュメント・ザ・オナニー」シリーズは第一作の「主婦斉藤京子の場合」から話題性が豊富であったため8万本を売り上げることができたのです。
他のシリーズにしても3~5万本は売り上げました。
どちらも1982年発売であるにもかかわらず、どうしてこのような差が出たのでしょうか。
それはこの時期が原因です。この時期のビデオデッキの普及率はまだ2割以下であり、ビデオレンタルショップもありませんでした。
つまり、ビデオが欲しいと思う人はまだあまり存在していなかったビデオショップで探し出して購入する必要があったのです。
「ドキュメント・ザ・オナニー」はビデオ商品ではなく、当初は劇場公開の「THE ONANIE」だったのです。
つまり、映画館のスクリーンで鑑賞したことによって、「ドキュメント・ザ・オナニー」はそれほど臨場感や躍動感は求められず、却って静的で重厚感のある描写が評価されることになったのです。
小さなモニターで見た場合には映像が激しく動いてもそれほど気にならず、むしろそれは躍動感・臨場感になるものですが、映画館でそれが映されれば観客は不快になることでしょう。
「THE ONANIE」が劇場で大ヒットしたのに対し、「美知子の恥じらいノート」はビデオの普及率が低かったことで大ヒットには至らず、「ドキュメント・ザ・オナニー」がAVの歴史において記念碑的なものとして語り継がれることになっているのです。